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サッカーのユニフォームを集めています

自分は幼いころからサッカーをしています。まだそれほどサッカーが日本でメジャーではなかった時代、学校のクラブ以外でサッカーを行うのは非常に難しく、高校卒業後、サッカーをしたくてもなかなかその機会がなく、一人でボールを蹴っていた時期がありました。

そんな時、少しでも雰囲気を出そうとサッカーのユニフォームを購入し、それを着用して練習をしていました。当時はユニフォームの種類は少なく、おまけに値段も高かったために何着も購入することはできませんでした。

しかし最近では日本でもサッカーがメジャーなスポーツとなり人気が出てきたことに伴い、ユニフォームの種類はとても多く、かなりマイナーなチームのものでも購入することができます。

また値段も当時に比べるとかなり安くなり、購入しやすくなりました。自分が集めているユニフォームは普段着として着れるもの、もしくはサッカー以外のスポーツをするときに着てもおかしくないデザインのものです。かなりマイナーなチームのものもたくさん持っています。

今ではかなりの数のユニフォームが集まりました。部屋に飾ってあるものもあり、インテリアとしても活躍しています。このユニフォームのコレクション、やめられません。

ロングセラーのベビースターラーメンは最高!

子供の頃から「ベビースターラーメン」が好きでした。いまでもコンビにやスーパーなどで売っているので、かなりのロングセラーのヒット商品で好きな駄菓子の1つです。

当時のベビースターラーメンは口の中に刺さるのかと思うほどカリッカリにあげられた縮れた麺がチキン味だかコンソメ味だかに味付けされており大変美味しかったのを覚えています。また、友達の家に遊びに行った際に友達がベビースターラーメンにお湯を入れて即席ラーメンのようにアレンジして食べていたことに衝撃を受けた思い出があります。

子供の頃のベビースターラーメンは小さなオレンジ色の袋に包装され一部が透明になっており、駄菓子の中身が見えるものでした。その見えている中身が絶妙に味を想像させ、たまらず手にとってしまうほど包装袋が印象的でした。また、かわいらしいキャラの絵もプリントされておりそれも印象に残っています。

時代の流れからかベビースターラーメンの袋も大きくなり、中華風のキャラクターに変わりました。中身もいろんな形や大きさになり、味も色々なものが出ています。また流行のご当地ものとして、地域別のベビースターラーメンを良く見かけます。

昔から誰もが知っている馴染みがある駄菓子なので旅行のときのお土産に最適です。

ベビースターの種類や情報がたくさん載ってるおすすめのブログ様です→ベビースター列伝

青汁で肌荒れと無縁の肌作り

私はニキビが出来やすく、ストレスが溜まったときや生理前など、色々なことが原因ですぐに肌荒れを起こしてしまい、すごく悩んでいました。

テレビのCMでよく青汁を紹介していますが、どうせ飲みにくくて長くは続けられないだろうと思っていました。けれど、青汁は美容にとても効果的だということは聞いていたので、物は試しと一度飲んでみることにしました。

飲んでみると思っていたよりもとても飲みやすくて、水で溶かしたり牛乳に溶かしたり、ときにはヨーグルトに混ぜて食べたりしていますが、どんな方法でも美味しく摂取することができ、とても気に入ってしまいました。

飲み始めた頃はあまり体に変化がなかったのですが、2週間くらい経ったころから徐々にニキビが減り始め、新たにニキビが出来ることも少なくなっていったんです。ニキビケアに色々な基礎化粧品を使っていましたが、やっぱり体の中からしっかりと肌のケアをすることって大切なんだと身を持って実感しました。

今は青汁を飲むようになって3ヶ月くらい経過していますが、肌荒れすることはほとんどないですね。生理前の肌が敏感な時期でも、いつもどおりのツルッとした肌の状態を保てています。刺激に負けない、健康な強い肌に生まれ変わったように思います。憂鬱だったメイクも、今ではとても楽しく出来ています。

もっと早く青汁に挑戦してみればよかったと思うくらい、青汁は肌荒れに効果的ですね。これからも青汁を飲む生活はずっと続けていきたいと思える、頼もしい存在です。

やっぱり銀魂が好きだ!

7月公開の映画と共にアニメも終了してしまったジャンプのSFギャグ漫画銀魂ですが、私はコミック1巻が出た時から大好きで、アニメも開始と共にかじりつくように見ていました。

下ネタも多いし、歴史上の人物が有り得ない言動をするし、色々なジャンプ漫画、番組をパクってパロディにしてしまう。読んでいる側から言っても「打ち切られるのでは…」と、ハラハラさせられる漫画です。でも、そこには熱い魂のこもったメッセージと、現代の子供に向けての言葉があると思うのです。

例えば、仲間を大事にすることや、周りの人達がどれだけ支えになって自分は生きているのか、人を失うことがどれだけ辛いことなのか。そういう人として一番大事なものをコミカルに且つ大事に描いている作品です。

銀魂のDVDの中で、とある声優さんが「大人が一生懸命遊んで描いているアニメ」と表していたことがまさにぴったりだと思っています。アニメ制作には色々とわたし達の知らない決まり事があるようで、放送禁止用語やBGMなど本当に色々な決め事があるそうです。

しかし、その決められた枠から飛び出して、TV局の偉い人に怒られながらも放送するという意気込みには何とも大人の固い意志が伝わってきます。アニメ銀魂は終わってしまいましたが、本編はまだまだ続いています。おそらく、こち亀のような漫画になると思うのです。下品でだらだらしていて下ネタのオンパレード。

そんな銀魂ですが真の底には作者とアニメ制作スタッフの方達の熱い魂が見え隠れしてきます。だからこそ今の時代に合った、アニメと言えると思うのです。

私の祖母の性格

私は小さいころに父方の祖父母に預けられていたこともあり、父方の祖母にはとても可愛がられました。
父方の祖母は都会生まれということもあり、年をとっても高級な化粧品を購入したり高いブランド品を購入したりとよく言えばおしゃれ、悪く言えば散財家だったようです。
また、当時の人としては珍しくタバコを吸っていて現代的な人でもありました。
基本的に祖母は料理が得意でなく作れる料理も決まっていたのですが、祖父の出身地である北海道の郷土料理は得意で、ニシン漬けやイカの粕漬けなど、特徴的な料理を作ってくれました。
また甘納豆を使ったお赤飯なども作ってくれたりしたので、私は小さいころから北海道の味に慣れ親しむことができました、。
一方私の母方の祖母は、昔からとにかく頑張って働いてきた人でした。
母方の祖母は料理も得意ではなく、どちらかというと男性の様な気質だったため、私はあまり祖母と話をしたり遊んでもらった記憶はありません。
一見すると口も悪く話しにくかったりするのですが、心の底では娘や孫のことを心配しており、時々家に顔を見せるようにと連絡が入ってきます。
祖母は心が優しいのですが、それが表に出ないためなかなか理解されずらいのだと思います。

私は小さいころに父方の祖父母に預けられていたこともあり、父方の祖母にはとても可愛がられました。父方の祖母は都会生まれということもあり、年をとっても高級な化粧品を購入したり高いブランド品を購入したりとよく言えばおしゃれ、悪く言えば散財家だったようです。

また、当時の人としては珍しくタバコを吸っていて現代的な人でもありました。

基本的に祖母は料理が得意でなく作れる料理も決まっていたのですが、祖父の出身地である北海道の郷土料理は得意で、ニシン漬けやイカの粕漬けなど、特徴的な料理を作ってくれました。

また甘納豆を使ったお赤飯なども作ってくれたりしたので、私は小さいころから北海道の味に慣れ親しむことができました。一方私の母方の祖母は、昔からとにかく頑張って働いてきた人でした。

母方の祖母は料理も得意ではなく、どちらかというと男性の様な気質だったため、私はあまり祖母と話をしたり遊んでもらった記憶はありません。一見すると口も悪く話しにくかったりするのですが、心の底では娘や孫のことを心配しており、時々家に顔を見せるようにと連絡が入ってきます。

祖母は心が優しいのですが、それが表に出ないためなかなか理解されずらいのだと思います。

大学紛争時代の学生生活

私は、もう大昔の1970年前後を、京都の私学で学んでいました。おりしも、大学紛争の激しい時代でした。
ちょうど2回生の時、大学が新左翼系のセクトによって封鎖され、1年近く授業を受ける事ができず、アルバイトの毎日を過しました。政治に無関心なノンポリではなかったのですが、当時の過激な思想信条には付いていけず、そうした活動に反発を覚えていました。大多数の学生が、そうであったと思います。
せっかく仲良くなった仲間も、封鎖が解除されず、故郷に帰り、散りじりになってしまいました。私は工学部の学生で、それを生かせる通信工事会社で終日アルバイトに励みました。
私の仲間には、苦学生が多く、授業が受けられないけれど、アルバイトで稼げる事は、ある意味助かりもしました。
1年近く経ち、封鎖が解除されると、遅れを取り戻すべく、専門の勉強を精一杯しました。また理系ではありましたが、様々な文学書や哲学書も乱読しました。類は友を呼ぶもので、私の親しい仲間は皆そうした生活を送っていました。
貧しいながら、大学に行かせてもらえた事に感謝し、そのためにも自己成長を図ろうと、ある意味、真剣でした。卒業研究のため、4回生の時には、夏休みにも出て、研究をしました。その時、昼休みに食事をしながら、仲間で馬鹿話に交えて、将来の夢を語りあった事を今も覚えています。
思えば、あの時代には、そんなぼくとつとした学生がまだ多くいたのです。今の恵まれた時代の学生には、考えも及ばないことでしょう。
仲間は、それぞれ社会で活躍し、定年を迎えました。40年を経過して、その仲間とは、今も交流を続けています。

私は、もう大昔の1970年前後を、京都の私学で学んでいました。おりしも、大学紛争の激しい時代でした。

ちょうど2回生の時、大学が新左翼系のセクトによって封鎖され、1年近く授業を受ける事ができず、アルバイトの毎日を過しました。政治に無関心なノンポリではなかったのですが、当時の過激な思想信条には付いていけず、そうした活動に反発を覚えていました。大多数の学生が、そうであったと思います。

せっかく仲良くなった仲間も、封鎖が解除されず、故郷に帰り、散りじりになってしまいました。私は工学部の学生で、それを生かせる通信工事会社で終日アルバイトに励みました。

私の仲間には、苦学生が多く、授業が受けられないけれど、アルバイトで稼げる事は、ある意味助かりもしました。1年近く経ち、封鎖が解除されると、遅れを取り戻すべく、専門の勉強を精一杯しました。また理系ではありましたが、様々な文学書や哲学書も乱読しました。類は友を呼ぶもので、私の親しい仲間は皆そうした生活を送っていました。

貧しいながら、大学に行かせてもらえた事に感謝し、そのためにも自己成長を図ろうと、ある意味、真剣でした。卒業研究のため、4回生の時には、夏休みにも出て、研究をしました。その時、昼休みに食事をしながら、仲間で馬鹿話に交えて、将来の夢を語りあった事を今も覚えています。

思えば、あの時代には、そんなぼくとつとした学生がまだ多くいたのです。今の恵まれた時代の学生には、考えも及ばないことでしょう。仲間は、それぞれ社会で活躍し、定年を迎えました。40年を経過して、その仲間とは、今も交流を続けています。